真田幸村は本名ではない!実在の人物は真田信繫!正体は徳川家康を震撼させた人物だった!

真田幸村は戦国時代に活躍した歴史上の大人物です。しかし、有名大河ドラマ「真田丸」や小説やアニメでは「真田信繁」という別名になっていることがあります。

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なぜ「幸村」ではなく「信繁」なのかと疑問を持つかたが多いと思います。

真田幸村という名前は有名ですが、本名は「真田信繁」です。生前本人が「幸村」と名乗っている確かな資料はなく「幸村」という名の根拠もはっきりとは分かっておらず謎に包まれた人物です。

この幸村の名前は真田信繁が大阪の陣で死後60年後の1672年に書かれた軍記物「難波戦記」の架空の主人公として初めて登場します。

難波戦記の中で徳川家康を追い詰めた「大阪の陣」に登場した「真田幸村」に人気になりあとに出版された「真田三代記」でも人気の「幸村」の方が使われており本名より有名になってしまいました。

親からもらった名前ではなく他人が決めた名前のほうが人気になるのは悲しいですね。

本人がこのことを知ったらどんな反応をするのかみてみたいです。

 

なぜ「難波戦記」において、「信繁」ではなく「幸村」という架空の名前が使われたのか。

この疑問については、「難波戦記」には何も書き残されておらず、歴史上も定説がないので推測するしかありませんが、おそらく幕府の目を気にしての措置だったと考えています。

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難波戦記が出版された時代は真田幸村は信州の「松代藩」を治めていて主人公を架空の名前にしないとバレて幕府から厳しい処罰を受ける可能性があったからです。

今も昔もその時代の有名人は周囲の目を気にしないといけないので大変ですね。

ではもう少し細かく「真田信繁」について書いていきたいと思います。

 

真田幸村は小説の人物

真田幸村は小説の主人公の名前で架空の人物であり実在する人物ではなく本名は「真田信繁」です。

真田幸村が有名になった作品は難波戦記という江戸時代に流行った文献です。

幸村という名前は1615年徳川家康を追い詰めた戦い「大阪の陣」で真田幸村は最期を迎え、そこから約60年後の1672年に万年頼方と二階堂行憲によって書かれた難波戦記で名前が初めて出ました。

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なぜ真田幸村にしなければならなかったのかは時代と江戸幕府がとても関係しています。

難波戦記は江戸時代を支配し江戸幕府を開き時代の天下をとった徳川家康が、ただの田舎で生まれた真田信繁によって、窮地に追い詰められた実話の物語が書かれています。

もし実名で書かれていたら江戸幕府が見過ごさないですし、出版の邪魔をしたという記録も資料に残されていて難波戦記の作者やそれに関わる者はとても厳しい処罰を受けていたと思います。

なので別名が生まれ使われました。

 

難波戦記の作者で「幸村」の名付親である万年頼方と二階堂行憲、この二人はしらべても詳細が不明ですが幕府の目がある中で危険をおかしながらも難波戦記を書き残した勇姿は素晴らしいと思いました。

それ以降に書かれた「真田三代記」や真田家の歴史書「真武内伝」でもすべて幸村の名前で記載されています。

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真田幸村の名前は難波戦記からはじまり現代でも浸透していて使われているので歴史を感じますし感慨深いと思いました。

 

実在の人物・真田信繁とは?

戦国大名で忍者集団の真田十勇士を率い、豊臣家に生涯忠誠を誓った英雄と言われています。

そんな英雄真田信繁ですが少年時代は苦労人です。

稀代の策略家だった父・真田昌幸は弱小な真田家を主君を次々と乗り換えることによって領地と自分たちを守っていました。

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そのため信繁は人質として出され君主にこき使われ厳しい人質生活を送っていました。

豊臣家の人質だったとき、真田信繁は豊臣秀吉に出合い気に入られたため、人質というより家臣として扱われそこから幸村の人生は変わっていきました。

 

信繁が活躍した有名な戦は大阪城で行われた徳川軍と豊臣軍の最終決戦「大阪の陣」です。

信繁の最後は大坂城近くの「安居神社」で討ち取られたといわれ48歳で最期を迎えました。

結構若い歳で亡くなっているので驚きました。

 

信繁は温和で明るく誠実な性格だったそうです。

それが記されている資料があり、「幸村君伝記」に物事に対する態度はものやわらかで忍耐強い。言葉数は少なく、怒ったり腹を立てたりすることはない

という兄・信之の言葉が残っていてとても真面目で誠実な姿が想像できます。

またそのような性格をおもわせるエピソードもありいくつか紹介します。

性格に気難しさがなく、人と会話を交わすと笑いが絶えず、すぐに打ち解けたという記録が「翁草」という随筆に残されていて非常にコミュニケーション能力が高いことがわかります 。

豊臣家が父・真田昌幸の主人に変わった際に信繁が秀吉の人質となると、前の主人が「返してくれ」と秀吉に頼んだという話があります。

また「大阪の陣」で徳川軍から破格の条件で何度も寝返るように使者が訪れたそうですが、すべて断り豊臣秀吉を決して裏切らず最後まで共に戦いました。

これらのことから真田信繁は優秀で人情が深く、人としてとても尊敬でき目標になるような人物であることがわかります。

 

Q・欠点や失敗した真田信繁(幸村)は人気があるのか?

「大阪の陣」での活躍はエピソードが調べても出てこないので人として完璧すぎて怖いなと思いましたし、もしそのようなエピソードがあったらギャップがありもっと人気が出たのではないかなと思いました。

人気の理由がありすぎる

現代人が真田幸村を好み人気な理由としては戦国時代に活躍してきた歴史もありますが、ドラマやアニメの影響が大きいと思います。

NHK大河ドラマ「真田丸」は大坂の陣で戦国時代最後にして最強の砦「真田丸」を作りあげるまでの真田信繁の人生を描いたドラマでその生き様に惹かれ心をつかまれた視聴者が多くヒット作品になりました。

強い戦国武将やなりたい武将ランキングでは必ずトップ10に入っていて知名度と人気の高さがわかります。

アニメではキャラクターの容姿がイケメンでかっこよく、赤い甲冑がとても印象的で覚えやすくどのアニメでも必ず強いポジションにいます。

画像出典元:真・無双Blog

歴史からわかるように性格も良く徳川家康を追い詰めた強さを持ち悪いところがなく非の打ちどころがない人物なので人気が出るのは必然的なのかなと思いました。

 

まとめ

今回は真田幸村について調べました。

真田幸村は別名で小説の中の架空の人物で本名は真田信繁という。

有名な戦は「大阪の陣」で徳川家康に豊臣秀吉と共に挑んだ戦国時代の有名な武将である。

人物としても尊敬でき知名度や人気がとても高い。

などのことがわかりました。

少しでも興味がわいた方はNHK大河ドラマ「真田丸」を観たり図書館で歴史の資料を読むのもいいかもしれませんね。

 

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