かつてZOZOTOWNを運営していた会社の社長だった前澤友作さんが約123億円で落札した絵画を描いたアメリカのアーティスト・ジャン=ミシェル・バスキア(以下、バスキア)ですが、彼は27歳という若さで命を落としました。
若くして亡くなった原因は何だったのでしょうか?
なぜ若くして死ななければならなかったのでしょうか?
生前から注目されていたバスキア。その短くも太い人生に迫ります。
死因はヘロインの過剰摂取
バスキアの死因はヘロインの過剰摂取です。
ヘロインとは
けしから採取される【あへん】を精製してモルヒネを作り、そのモルヒネを科学的加工したもがヘロインになります。
画像出典元:千葉県警察
ヘロインはモルヒネの3倍も強力で、中毒性も高い。
ヘロインの影響
ヘロインには、神経を抑制する作用があり、乱用すると強い陶酔感を覚えることから、このような快感が忘れられず、乱用が繰り返されるようになり、強い精神的依存が形成される。
それと同時に強い身体的依存が形成され、2~3時間ごとに摂取しなければ、体内の筋肉に激痛が走り、骨がばらばらになって飛散すると思うほどの痛み、悪寒、嘔吐、失神等の激しい禁断症状に苦しむことになり、苦しさから精神異常をきたすことがあります。
大量摂取すると呼吸困難、昏睡の後、死に至ります。
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なぜヘロインに手を出してしまったのでしょうか?
成功へのプレッシャー
世界的なスターダムに駆け上がったバスキアですが、商業的な成功とそのことへのプレッシャーから徐々に麻薬に溺れるようになりました。
アーティストとして成功したことへの強迫観念が強く、いつも追い込まれた状況で作品制作に没頭していました。壁には常に10作品ほどを並べて、数日間寝ずに仕上げたこともあると言われています。
1987年にアンディ・ウォーホルが亡くなると、さらに孤立を深めて、薬への依存度が高くなっていきました。
うつ病も悪化し、ハワイのマウイに滞在してしばらく静養していたのですが、ノーホーにある自身のスタジオに帰り、1988年8月12日にヘロインの過剰摂取により27歳の若さで亡くなりました。
生い立ち
バスキアは、幼い頃から絵画に興味を示し、美術教育に関心の高かった母によってブルックリン美術館やメトロポリタン美術館を何度も訪れていたそうです。
しかしバスキアに悲劇が。8歳の頃に自動車事故に遭い、脾臓を摘出しています。
入院中に母からプレゼントされた【グレイの解剖学】という本が、バスキアの印象に深く残り、解剖学的なドローイングに繋がっていきます。
13歳のときに、母親が精神病棟に入院し、17歳の時に父親に家を追放された後は、友人の家に居候していました。
自身で制作したTシャツや、ポストカードを販売して生計を立てていたそうです。
1976年に、アル・ディアスとともに【SAMO(セイモ)】(Same Old Shift いつもと同じだよ)というユニットを結成。
マンハッタンの建物や壁にスプレーで描くグラフィティアートを中心に活動し、その風刺的な作風は注目を集めますが、1979年に2人の関係悪化を理由にAMOの活動は終了しました。
その後、バスキアは1980年にニューヨークで初めてグループ展「タイム・スクエア・ショー」に参加。
1981年には、キース・へリングやアンディ・ウォーホルらと共に「New York New Wave」展に参加して注目を集めました。
1983年には来日も果たしています。三宅一生のモデルを務めて、東京のアキラ・イケダギャラリーで日本国内初の個展を開催しています。
まとめ
バスキアの死因はヘロインの過剰摂取。